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虎狛山 日光院 祇 園  寺 
 
利益 縁結び、厄除け、眼病・病気平癒、長寿
                                          【設定によって「祇」と表記されます】

 

祇園寺縁起ものがたり 

天平年間(西暦729~749)創建

 

 昔、この地に郷長右近の長者と、その妻の虎女の間にひとりの美しい娘がおりました。娘が年頃を迎えた頃、福満という青年が現れ、二人は相思相愛の仲になりました。

しかし両親は、どこから来たかも分からぬ青年と一緒にさせる訳にはいかないと、娘を池の中の小島へ閉じ込めてしまいました。

困った福満が、水神・深沙大王に祈ったところ、池から大きな霊亀が現れ、福満を背中に乗せて娘の居る小島へ渡してくれました。

この奇跡に、娘の両親は二人の結婚を許し、二人の間には玉のような男の子を授かりました。この子は、満功(まんく)と名付けられ、成長すると両親の教えにより深く仏教に帰依し、唐に渡り仏教を学びました。その後、この地に戻り、仏教の流布と両親の菩提を弔うため、この祇園寺を建立しました。

 
〜祇園寺の歴史〜
 祇園寺は、虎狛山日光院祇園寺と号し、当初は法相宗でしたが平安期に入り天台宗に改宗され、現在に至ります。
 諸所興亡があり無住の時代も長く続き、歴史を記す資料は殆ど散佚してしまいましたが、近世になると、「武蔵名勝図会」「新篇武蔵風土記稿」「江戸名所図会」等にしばしば紹介されています。
 明治期当時の住職、中西悟玄師は日本野鳥の会設立者である中西悟堂師の養父にあたり、悟堂師も十代の多感な時期をこの祇園寺で過しました。悟玄師は、入寺以前は政治家として世界各地を駆け巡り、当山住職になってからも、政治活動のかたわら「週間多摩新聞」の発刊、青年会の組織指導、三多摩地区農家への養豚の推奨等、幅広く地域貢献の活動を行ないました。
 また、板垣退助率いる自由党の党員であったため、明治41年に自由民権運動殉難者慰霊法要を勤修し、大演説会が催されました。その時、板垣退助の手によって植えられて二本の赤松の木は「自由の松」と称され、「板垣死すとも自由は死せず」という板垣の言葉通り、現在も天高く聳えています。

 

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